東洋大学野球部の歴史-人物①野本喜一郎さんⅠ

野本喜一郎さんの経歴を知りたくて書籍や新聞など幾つかあたってみた。

① プロ野球人名辞典2003年版(日外アソシエーツ)
 1922.5.8~1986.8.8 出身・埼玉県北埼玉郡/不動岡中(現・不動岡高)→台北高商→コロムビア 球団・’50西日本 ‘51-’52西鉄 ‘53近鉄 ポジション・投手 
経歴・引退後、東洋大に進学。卒業後上尾高校監督に就任し、22年間に6回甲子園に出場。’84年当時無名だった浦和学院高に転じ、鈴木健(西武)を育てて’86年に僅か3年目で甲子園出場を果たすが、試合の前々日死去した。 投手実績・実働4年18勝27敗、16完投、2完封、150奪三振、投球回494 2/3、防御率3.62

②  甲子園高校野球人名辞典(東京堂出版)
 上尾高校の名監督で、新興の浦和学院も強豪校に育てた。
 1922年5月5日埼玉県北埼玉郡(現・加須市)に生まれる。不動岡中学では3年生の’37年から投手として活躍。翌’38年には埼玉予選準決勝で川越商から14奪三振を奪いながら1-3で敗れている。
 卒業後は、台北高商を経て、戦後はコロムビアで投手としてプレーした。1950年のプロ球団・西日本の結成に参加(翌年近鉄に合併)。’53年近鉄に転じ、同年引退した。
 引退後東洋大監督を経て、57年上尾高に野球部が創部されると監督として招聘された。以後22年間監督をつとめ、この間に6回甲子園に出場、’75年にはベスト4まで進出するなど、同校を埼玉県を代表する強豪校に育てた。
 ‘84年、当時は全く無名の新興高校である浦和学院高に転じ、鈴木健(西武-ヤクルト)を育てて、’86年に僅か3年目で甲子園初出場を果たしたが、試合の前々日の8月8日に64歳で死去した。
 主な教え子に、上尾高時代の山崎裕之(東京-西武)、仁村徹(東洋大-中日)、福田治男(東洋大-桐生一高監督)、浦和学院高時代の谷口英功(東洋大-東芝)らがいる。
 また、不動岡中学の2年先輩でチームメイトでもあった野本敏は伯父(母の弟)にあたり、'62年秋季埼玉大会決勝戦では、喜一郎が監督の上尾高と、敏が監督の不動岡高が対戦して話題になった。

③  朝日新聞1986年8月10日朝刊(訃報)
 旧制不動岡中(埼玉)出身。ノンプロ野球を経て昭和二十五年(’50)から四年間、西鉄などプロ球団に投手として在籍。五十九(’84)年四月浦和学院高校監督に就任。今夏、初の甲子園出場を果たすチームに育てたが、七月初めから入院、地方大会期間中ベンチ入りできなかった。県代表に決まったあと今月一日、監督を和田部長(監督代行)に譲った。五十九(’84)年三月まで通算二十二年間、上尾高監督を務め、春、夏各三回甲子園へ導き、この間、東洋大監督も務めた。

④ 毎日新聞1986年8月10日朝刊(訃報、但し社会面二段組囲み記事)
 野本さんは三十三(’58)年四月、県立上尾高野球部監督に就任、五十九(’84)年四月に招かれて浦和学院高野球部監督となった。・・・中略・・・かつて西鉄ライオンズ(現西武ライオンズ)、近鉄パールズ(現近鉄バッファローズ)の投手であり、四十一年(’66)から四十五年(’70)まで、東洋大学野球部の監督も務めている野本さん。「少しでも浦和学院を強くし、野球界を去りたい」というのが最近の口ぐせだった。

⑤ 読売新聞1986年8月10日朝刊(訃報)
 野本さんは、三十三年(’58)から五十九年(’84)まで上尾高や東洋大学の監督を務め、上尾高を春夏計六回甲子園に出場させ、ベスト4に進めたこともあり、甲子園常連監督の一人として知られている。
五十九年(’84)四月、浦和学院高野球部監督に就任。“野本野球”で三年がかりで強力チームを育てあげ、今年春の県大会で初優勝。夏の大会直前に倒れ、病床から采配をふるった。

⑥ 朝日新聞1986年8月10日朝刊(スポーツ面“ 野本さんの死聞き大粒の涙”より)
 野本さんは三十四年(’59)に創立間もない上尾の野球部監督になった。途中、東洋大の監督に転出した六年間を除き、十九年間、県立上尾高の監督を続け、五十九年、創立七年目の浦和学院へ。

⑦ asahi.com2006年07月05日〈夢をつなぐボール1〉「無心に」野本イズム継承 より
   野本は、旧制不動岡中学を卒業。戦時中は徴兵され、中国に送られた。戦後、社会人を経て西日本パイレーツに入団。いくつかの球団を渡り歩いた後、退団。上尾で銭湯を開業した。
 58年、上尾高校ができると、上尾中学の生徒に野球を教えていた縁で60年に監督に就任、高校野球の指導に携わる。

⑧ ウィキペディア
   野本 喜一郎(のもと きいちろう 1922年5月8日 - 1986年8月8日)は、埼玉県加須市出身の元プロ野球選手で元アマチュア野球指導者。右投げ右打ち。
 埼玉県立不動岡高等学校卒業 - コロムビアを経て、1950年、西日本パイレーツ入団。1951年、西日本パイレーツと西鉄クリッパースが合併し、西鉄ライオンズになった。1953年に近鉄パールスへ。1953年現役引退。その後、東洋大学野球部、埼玉県立上尾高等学校野球部、浦和学院高等学校野球部で監督を務めた。1986年、浦和学院高等学校が甲子園初出場を決めたが、開会式当日に亡くなった。享年65(64歳没)。

どれも微妙に違うのだが、①②のプロ退団→東洋大→上尾高と③以下のプロ退団→上尾高→東洋大→上尾高の二グループに分かれている。この点だけははっきりさせて欲しいものだ。

関連エントリー:東洋大学野球部の歴史-人物①野本喜一郎さんⅡ



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