東洋大学野球部の歴史-戦後編⑦昭和35年追記:グラウンドについて

先にエントリーした東洋大学野球部の歴史-戦後編⑥昭和35年の“昭和35年の出来事”に記したように、この年の9月に川越の総合グラウンドが完成し、今日に至るまで野球部、陸上部などの拠点となっている訳だが、それ以前の運動部はどこで活動していたのかが、本ブログを始めて以来疑問としてあった。

先日、白山に行く機会があったので東洋大図書館に立ち寄り、校友会報のバックナンバーにいくつか目を通してみたところ、各年代の方々の投稿や座談会などからいくらか情報が得られたので、野球と陸上について簡単にまとめてみたい。

校友会報116号に『五十年前の野球部』と言う一文が昭和6年卒業の野球部員の方から寄せられている。それによると
球場は、都心から遠く離れた埼玉県の東大泉村にあった。どこかの会社の持物とか。だから練習にでかけるにしても、巣鴨から池袋、池袋から西武線に乗り換えて東大泉で下車、そこから駅前のタクシーを駆って球場へやっと辿りつくといったあんばいであった」
とある。東大泉駅は現在の大泉学園駅で昭和八年に改称されるまではこの駅名であった。但し当時も東京である。駅からタクシーで行くほどの距離であればグラウンドの所在地は埼玉だったのかもしれない。
当時は監督もコーチもおらず自主的に練習していたそうだ。大学からは公認され予算も付いていたので部長の先生はいたが練習には一度も顔を出さず、先生とはご自宅で一度お会いしただけとの事だ。
ただ、この投稿者の方は卒業後教職に就かれ、教材の中にその先生の作品があって驚いたそうだ。当時の野球部長は田部重治先生だったとの事である。

野球部のグラウンドについては111号の座談会『東洋大学スポーツの現状を語る』の中で兼頼米太郎氏(昭和10年卒、箱根駅伝初出場の時の一区走者)が
野球部は新井薬師の方でやっていたと記憶していますが・・・
と発言されている。これは哲学堂公園の今は軟式野球場とテニスコートになっている所であろうか。(哲学堂が東京都に移管された後も、グラウンドの部分はしばらくの間財団法人哲学堂の所有となっており東洋大学に貸与されていたと言う話を何かで読んだ記憶がある。現在は全て中野区の管理下にある)

一方、陸上部については同じ111号の座談会で兼頼氏は
陸上部は西巣鴨にあった国立の蚕糸専門学校のグラウンドを借りてやって
いたそうだ。蚕糸専門学校は現在の農工大で当時の場所は厳密にいえば北区西が原である。
また、兼頼氏は116号の座談会「われらの時代の“箱根駅伝”を語る」にも出席されており、その中では長距離の選手は
肴町の風呂屋(現白山・南天堂のとなり)から駒込、飛鳥山、西巣鴨を通って池袋までのコースを走るわけですが、風呂屋を出発点にするのは、お風呂屋へ行って裸になって、帰りにお風呂で汗を流すというわけですよ(笑)」
とも語っている。南天堂となりの風呂屋は後に白山サウナとなったが近年取り壊されマンションになってしまった。

この座談会には各年代の箱根ランナーの方々が参加されており、その時代時代の練習場所を知ることができる。
東洋大の戦後初めての出場となった第24回箱根駅伝で六区を走った林氏(昭和26年卒)の頃は
久我山とか大宮とかにある会社のグランドへ行きました。今俳優で有名な植木等さんなんかも一緒にいって練習しました
そうだ。植木さんは短距離の方である。
林氏が入学した入学したのは昭和20年、白山の街は焦土と化していたそうである。

林氏より少しあと、昭和32年卒の小菅氏(箱根出場時は峰岸姓)は
「先程白山からの練習コースの話が出ましたが、私たちの頃も同じコースと、それから大塚仲町、護国寺、後楽園、本郷をまわってくるコース、たまには皇居一周という場合も
あったと語っている。

そして、昭和35年卒、小池氏(東洋大が過去最高三位になった時の二区走者)の代には
「大学が力を入れ始めていた頃だったのか、十五、六名入りましてね。それで板橋の蓮根に合宿所を一軒借りてくれて自炊生活を始めたわけです。学校へ来るときはむこうから走ってくる。また逆もやる。当時大学の前を通っていた都電と競争するわけです。僕らの頃も勿論グランドはありませんでしたしね。まあ志村高校のグランドで走ったり、埼玉大のグランドを借りて練習したりしてました
との事である。

先に紹介した座談会『東洋大学スポーツの現状を語る』によれば、戦前は
「まだ大学の中で組織的に位置付けて云々というところまではいってなかったわけで、金銭的にも個々人の寄附だとか、働きかけが主体」(兼頼氏)
で戦後も昭和30年頃までこのような状況であったようだが、昭和30年から33年まで校友会事務局長を務めた伊賀上氏によれば
「その頃、学生の士気を高揚させるという意味と大学自体を宣伝するということで、野球、柔道、陸上の三部を強くするという“三部重点主義”というのができて、私は自分が中学の頃少し野球の経験がありますので野球の方を担当しまして、関西、中国、四国の方を回りました。まあ、全般的にこのあたりからスポーツに対する考え方がかたまってきたといっていいんじゃないでしょうか」
と語っている。小池氏が入学したのがちょうどこの頃ということだろう。

そして、昭和35年の川越グラウンドの完成によって選手たちは生活、練習とも川越に移っていく事になる。昭和50年卒の某氏の頃になると
「生活の面では川越から白山まで遠いもんですから、やっぱり学校へ出るというのがついつい疎かになりましてね。・・中略・・もっと授業へ行くべきだったと思ってますね(笑)」


かくして、筆者のような怠惰なOBも野球部の優勝にかこつけて大酒を喰らい、正月にはテレビの前でごろ寝しながら箱根駅伝に声援を送る今日を迎えることが出来たわけである。

参考
「サアいこう」。東京都文京区原町の高台に建築美を誇る東洋大。その石段を吉田主将にひきいられたチームが走り出すと、やわらかな日当たりにたたずんでいた学生たちが口ぐちに「あれが一区の石井だ」「箱根山をくだった奥沢だ」と話しはじめた。話題がいっせいに駅伝に集中されたのだから驚く。
二十六年前、同校の初出場に当たって一区を走った兼頼さん(同校陸上部長)の話では「グラウンドがないので手軽にやれる駅伝が東洋大で一番のスポーツになった
(『読売新聞』昭和三十四年十二月二十八日付朝刊の記事「箱根駅伝合宿めぐり」より)

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*陸上部については陸上部応援サイト“輝け鉄紺”さんに詳しく紹介されています。




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