和辻哲郎と東洋大学の野球…?

『風土』や『古寺巡礼』などで一般にも広く知られる和辻哲郎が東洋大学の教壇に立ったのは大正九年の事だ。その後大正十四年からは京大、昭和九年から定年退官する昭和二十四年までは東大で学究生活を送った和辻は、それまでもっぱら文筆を以って生業としていたので、本格的な“学者”生活のスタートを東洋大学で切ったことになる。

「・・・そうこうしているうちに大正八年に、『古寺巡礼』を岩波から出してもらったのがきっかけになって、東洋大学で講義しないかという交渉を受けました。得能文さんの発議だということでしたが、速水混さんがその話を持って来られました。その時から講義という仕事を初めたんです(ママ)。その頃東洋大学の幹事をしていた郷白厳君が後に言ってましたが、どうせこの講師は欠席が多くて、講義があまり進まないだろうと思っていたら、案に相違して熱心にやって下さるので、非常に驚いたということでした。多分そのせいだったと思いますが、あそこで段々時間をふやされました。文化学科といって、教員免許と関係のない自由なコースを始めたりなんかした関係で、色々講義をあてがってくれたんです。それで、好きなものを勝手にやれるような科目をひきうけて、それから五年くらい東洋大学の講義を続けていました。京都へ行くまでです。
(談話『源泉を探る』)


『東洋大学創立五十周年史』によれば、大正十年の文化学科の倫理学・文学・史学の科目の教授に“文学士・和辻哲郎”の名が見られる。
また、『和辻哲郎全集別巻1』には未刊行の「芸術論」ノートが収録されており、同書の解説では“このノートはおそらく大正十二年度の東洋大学における「芸術論」講義の準備ノートと考えてよいだろう”としている。「芸術論」「日本芸術史」「日本倫理史」「日本文化史」「欧州文化史」等の講義を担当していたようだ。
学生たちの人気も高かったようで、文化学科に入学しながらほとんど授業に出ず一年足らずで中退してしまった詩人・岡本潤も自伝『詩人の運命』の中で“…学校はなまけていたが、それでも、和辻哲郎の日本文化史や出隆の西洋哲学史の講義の時間には、わりあい熱心に出席した”と語っている。

東洋大学では大正十二年に新聞各紙の社会面をおおいに賑わせた“紛擾事件”が起こるのだが、そのきっかけを作ったのが和辻だった。

「東洋大学は境野黄洋が学長の時分で、私のいるうちに黄洋学長を撲る事件が起こりました。あの事件のキッカケを作ったのは私なのですが、そのため、背後でアジったろうという嫌疑で、検事局へ呼ばれました。アジったわけではありませんが、境野学長のやり方に憤慨して、その日に辞職を申し出たことは確かなのです。境野という人は少し金にだらしのない人で、学校の金を少し私事に融通していたのですね。それを校友会の有力者の田辺義知という日蓮宗の坊さんが嗅ぎつけて、脅しの材料に使って、学校をのっとりにかかったんです。境野氏はやむを得ず田辺の言う通りに、田辺と一緒に動きだしたんです…中略…田辺を立てるために郷幹事などをやめさせることにまでなった。それを見て私は、ひどく憤慨して、辞職を申し出たのです。」
(談話『源泉を探る』)

「……授業後突然先生が、今度都合によって学校をやめる事になった。皆さんに対してはまことに心残りの気がするが……としずかにおっしゃいました」

「和辻先生は、少しの興奮の御様子もなく、お言葉は覚えて居りませんけれども、今度学校当局から解職になったので、これでお別れする。解職の理由ははっきりしない。とただそれだけを仰言ったと記憶しています。激しいお言葉も態度もありませんでした。でも先生が教室をお出になると、直ぐ我々はクラス会を開いて、代表が質問しに学長室へ押しかけたのだったと思います」
(『和辻哲郎とともに』和辻照より、当時の学生の回想)



和辻が辞職を告げた日にも学生は学長を大分つるし上げたようだが、この数日後には学生が学長室に乱入し学長を殴打する事件が発生、十数名が逮捕された。逮捕された学生の中には“若き天才詩人・宵島俊吉こと勝承夫もいた。
結局この紛擾事件は一カ月以上、学内が学長擁護派と学長排斥派に分かれてすったもんだした揚句、境野学長が文部省から学長認可を取り消されひとまず一段落し、辞表を出した和辻哲郎も京大に移る大正十四年まで教壇に立ち続けることになるのだが、当事者である境野学長は紛擾事件の原因として次のように述べている。

「・・なほ最近の一例としては、文化学科が中心となり、運動部の一部のものから要求して来た野球部新設を許さなかったといふことも、彼等怨恨の一因である。自分は野球運動は非常に規律的なもので、唯野次的気分で行ふべきものではないから、非常に訓練を要する者である。東洋大学にはまだグラウンドもないし、訓練の機会も、監督の方法も立って居ないのであるから、野球部と称して諸方に出かけ、学校の体面を汚す様なことがあってはならない、現にテニス部にすら、かかる例があったのであるから、未だ早いといふので許さなかったのであるが、この時既に学長排斥の声が出たといふことを聞いて居る。そうして文化学科以外の学生で、今度の騒動の中心となった学生は、運動部のものが最も多いのである」
(『東洋大学百年史』資料編上より)


どうやら野球部を認めなかったので文化学科の学生の恨みを買っていたのもこの騒動の遠因だったようだ。
『東洋大学百年史』によれば野球部が公認されるのは大正十三年とされているが、硬式野球部のHPなどでは大正十一年創部となっており、境野学長を殴打した勝承夫も後年
「…野球部があったよ。大正十二年位に。八人は集まったが九人集まらない。そこで僕がライトに入って専修大と試合をしたことがありますよ。大敗しましたがね」
(『校友会報100号』所収の《座談会》母校90周年記念“わが母校を語る”より)

と語っている…。(確かに境野が“学校の体面を汚す”と心配した気持も分からないでもない)




和辻哲郎は明治二十二年、兵庫県神埼郡の仁豊野(にぶの。現在は姫路市)に生まれた。六つ上の兄が旧制姫路中学で野球をやっており、二、三年生の頃は“仲間と一緒にベースボールをやるといって出て行ったまま、夜遅くなっても帰って来なくて家中大騒ぎした記憶”(談話『源泉を探る』より)があるそうだ。
その後、和辻自身も姫路中学に入学するが
私の一年生の時にはまだ野球のチームがあって、どこかとマッチをやるというので、白鷺城の南の練兵場へ見に行った覚えがある。投手は兄と同級の五年生で、後に軍医となった小金井という人であった。なかなか度胸のありそうないい投手に見えた。ところがこの五年級の卒業したあとで、野球は禁止ということになった。中学の運動場が狭くて、野球ができなかったことも、一つの理由であったかも知れない。が、おもな理由は永井校長が野球を好まなかったということにあるであろう。
(『自叙伝の試み』和辻哲郎全集18巻より)

新しく赴任してきたこの永井という校長は、野球の代わりにサッカーを奨励したが、あまり受け入れられず、そのうちに生徒たちの間では器械体操がはやりだしたそうだ。和辻自身も逆立ちの練習などしたようだが、ある時土手で逆立ちをしていて着地の際に足を骨折してしまい、それがきっかけでスポーツは断念したのだという。
それでも、『自叙伝の試み』によれば、上京して旧制一高に入学後も、寮生活を送りながら寮制の野球部員から“曲球の投げ方を教わった”りしたそうだ。
先に引用した校友会報100号の座談会でも勝承夫が

「…後年大哲学者になられた和辻先生は、野球が好きで、僕はしょっちゅうキャッチ・ボールをやったんですよ。講義が始まるぎりぎりまでやったもんですよ」

と語っている。


和辻哲郎の自伝である『自叙伝の試み』は当初『ある自叙伝の試み』のタイトルで『中央公論』の昭和32年一月号から連載されたが、昭和35年1月病気療養のため中絶。その年の暮れに亡くなったため「一高生活の思い出」までで途絶えてしまった。

永遠に書かれことなく終わってしまったこの先のページには、あるいは文化学科の草創期の野球部員との思い出や“若き天才詩人・勝承夫に曲球の投げ方を伝授した”ことなどが記されていたのかもしれない……。



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