法政大学から逆戻りして中等野球に出場した小方二十世投手

高校野球の歴史に少し詳しい方ならご存知かと思いますが、四大学野球リーグ(まだ立教と帝大が加盟する前の六大学)に法政大学の選手として出場していた小方二十世(おがたはたよ)投手が、大正九年の第六回全国中等学校野球大会(今の夏の甲子園大会ですが、当時は鳴尾球場)に九州地区代表の豊国中学の選手として出場した「小方事件」というものがありました。

この小方投手についてウェブで検索すると、夕刊フジのサイト“【高校野球100年 発掘・事件史】甲子園で大学生が“助っ人”登板 これ以降「18歳以下」に”や個人ブログの大学生の高校(中等)球児など数件しかヒットせず、またいずれのサイトも大学から中学に“転校”した理由などは書かれていないようなので、これまでわたくしが見てきた中で最も詳しいと思われる、森岡浩編『甲子園高校野球人名事典』の記事をご紹介いたします。

小方二十世(豊国中)
1920年におきた「小方事件」の当事者。
1901年東京に生まれる。父は明治6年に渡米して宣教師となり、のちに青山学院を創立した小方仙之助。仙之助の五男で、20世紀となった年に生まれたため、二十世と名づけられた。

青山学院中等部時代に野球を始めたが、校舎建設のためにグラウンドがなくなり、法政大学で練習をつづけた。この時、投手不足となった法政大学から声をかけられて転校し、4大学リーグ(明大・早大・慶大・法大、現在の東京六大学リーグ)で登板した(当時は学校制度や出場資格があいまいで、大学リーグに中学生が出場することはほかにもあった)。しかし、中学を卒業していないと徴兵免除とならないため、卒業資格を得るために1年間だけ福岡県門司の豊国中学に転じる。この時にエースとして九州大会を制し、’20年夏に鳴尾球場で行われた全国大会に出場した。当時は高等小学校を経由して中学校に進む選手も多く、満19歳という年齢自体は特に問題ではなかったが、前年に法政大学で登板していたことと、転校直後であることが問題となった。しかし、規則上は校長が許可すれば主催者側は従う、となっていたため、翌年からは転校後1年間は大会に出場できないように規約が改められた。
大会では初戦で鳥取中学(現在の鳥取西高)と対戦したが、直前に熱を出したためノックアウトされて途中降板した。この事件は「小方事件」として高校野球史上に残っている。

豊国中学を卒業すると法政大学に戻って法学部を卒業。さらに日本大学を卒業して国民新聞記者となり、出版社の経営などもてがけた。戦後は、宗教ジャーナリストとして独立した。満100歳を迎えた2001年、地域雑誌「川崎評論」の新世紀インタビューに元気に応じている。

なお、全国大会での登板記録は不明。
(森岡浩編『甲子園高校野球人名事典』=東京堂出版・2004年刊より)


この記述にも当時の事情を理解していないとわかりかねる部分がありますので若干補足いたします。

まず“法政大学から声をかけられて転校”で???となる方も多いかと思いますが、当時の法政大学は大学と名がついてはいますが、学校自体は専門学校令に基づく専門学校でありました。この頃の私立専門学校は正科や本科と云った名称の中学卒業生を受け入れるコースのほかに、別科などの名で中学校を卒業していない学生も受け入れておりました。
ですので、青山学院の中等部から法政大学に“転校”することが出来たわけであります。

ただ、『甲子園高校野球人名事典』でも触れているように、中学校を卒業していない専門学校の学生には当時与えられていた徴兵猶予や無試験での教員免許などの恩典が得られないため、小方二十世は再度大学から中学へ逆戻りすることにしたのであります。

豊国中学を選んだ理由はここには書かれていませんが、以前わたくしが眼にした文章では、知り合いの伝手によるもので、野球の腕を見込まれたわけでわなかったと思います(書名失念のため未確認)。

先に紹介した夕刊フジの記事中には
…この“事件”以降、大会主催者側は選手の出場資格制度の確立に乗り出す。2年後の1922(同11)年には、年齢制限を18歳以下とし、以後も留年者や落第者、外国からの帰国者らに対する制限を設けて、現在に至っている。

とありますが、朝日新聞社が昭和18年に発行した『全国中等学校優勝野球大会史』によると、二年後の第八回大会から定められた選手の資格制限は、“その年の三月に進級し得なかった生徒”と“他校から転校してきて、満二学期に達せざる生徒”で年齢に関する制限は特に触れていません。

当時の学制では尋常小学校が六年で、その後に中学校と高等小学校(二年制)の二つのコースがあり、高等小学校は中学受験に失敗した人の受け皿の役割も果たしていた為、同学年の中学生(商業や工業などの実業学校も含む)でも年齢にばらつきがあったので、年齢制限を加えるのは戦後ではなかったかと思います。

また、“他校から転校してきて、満二学期に達せざる生徒”の出場を制限したのは、小方二十世が出場した翌年の第七回大会で、岡山一中の投手が一度退学して就職したのに地区予選の直前に復学して勝ち上がってきたために物議をかもした、という経緯もあったようであります。


以前に小方二十世について検索した際には『甲子園高校野球人名事典』の記事にある、『川崎評論』掲載のインタビュー記事をウェブ上で読むことができたように記憶しておりましたが、先日たまたま確かめたいことがあって検索したところ、先の夕刊フジの記事などしか見つけられなくなっておりましたので、今回ご紹介致しました。



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この記事へのコメント

小方俊也
2019年08月22日 01:19
小方事件につき取り上げて頂き有難うございます。
二十世は私の祖父(小方仙之助の長男)の弟に当たる人物です。派手好きで見栄っ張りで一族の恥晒しのような人物ですが記載内容につき一部不正確なところがありましたので指摘をさせていただきます。

”豊国中学を選んだ理由はここには書かれていませんが、以前わたくしが眼にした文章では、知り合いの伝手によるもので、野球の腕を見込まれたわけでわなかったと思います”

とありますが、ベースボール・マガジン社刊「プロ野球三国志 第五巻」(大和球士著、1975年)によれば、腕を見込まれて豊国中学からたっての依頼により転校したとのことです。

私が高校生のころ、偶々クラスメートが出版されて間もない「プロ野球三国志」を読んでいて珍しい名字なので教えてくれた次第です。その後、当家を訪れた二十世に本件を確認したところ、豊国中学よりかなりの好条件をだされ断りきれなかったそうです。

また、”森岡浩編『甲子園高校野球人名事典』”からの引用には、あたかも徴兵逃れのため転校したかのような書かれ方ですが、法政大学への進学は規定路線で、中学卒業資格はいずれかで取る予定でした。

二十世の父である仙之助(青学の創立者ではなく、米メソジスト教団の宣教師、青山学院初代校主、3代院長)は6男4女に恵まれ子どもたちの高等教育には熱心だったそうです。長男(私の祖父)は早稲田予科から東京商船学校を卒業後、内燃機関学専攻で同校の教授を務め、また娘の一人については自らの出身大学である米デポー大学に留学させています。

二十世についても中学卒業資格を得るために青山学院に戻ることは容易でしたが、青山学院は宗教教育の関係から大学昇格を見送っている一方、法政は1920年に旧制大学移行が見込まれていたので、そのまま豊国中学を卒業し法政大学に進学した次第です。

先述の「プロ野球三国志 第五巻」によれば後日談として、昭和12年、二十世が弱小チームの大東京軍の身売りに奔走していたとき、売込み先の専務が早大の左腕速球投手として鳴らした人物で、この小方事件を覚えていたことが縁で大東京軍の株式を買取りライオン軍が誕生したそうです。

肝心な野球大会では腹を壊して滅多打ちにされ赤っ恥をかいたわけですが、出来は悪くても聖職者の息子、決して卑怯な理由で豊国中学へ転校したわけではないことを故人の名誉のために記しておきます。

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