昭和15年の箱根五区区間賞、朴鉱采の「秋窓雑感」

戦前の東洋大学では明治27年から大正12年まで『東洋哲学』、大正13年から昭和4年まで『観想』、昭和4年からは『東洋学苑』と誌名や発行母体を変えながら学内誌が発行されておりました。

更に『東洋学苑』も昭和8年に経済的理由により廃刊となってしまいますが、昭和10年に新たに『思想と文学』が刊行され昭和15年12月まで発行されました。

内容は学生・教員による学術論文から学内の状況や随筆など色々ですが、昭和13年(1938)年12月発行の『思想と文学』に朴鉱采筆「秋窓雑感」という一文を見つけました。

秋窓雑感 朴鉱采
秋風も出て来た。それは我々に或一種の緊張を與える反面に哀愁を誘うものがある。夏が去り秋が来ると云う自然現象は、無意味に流れ易い人間の生活を意義あらしめる為の造化主の仕業かも知れぬ。秋は来た。確かに我々の周囲に忍び寄ってきた。悪戯に哀愁を事とする秋ではない。秋風の囁きは確かに我々に何物かを暗示してくれた。

箱根の峻嶺へと若人の血を滾(たぎ)らす駅伝競走もあと四カ月余りに迫った。その雌雄を決する精力の蓄積こそは今からであらねばならぬ。百数十名の健脚達者が各々母校の栄誉を背負って全く崇高な精神にたちかえって勝負を決すると云うことは、宛(さなが)ら古代ギリシャに於いてペルシャの大軍がこれを一呑せんとしてマラソンに上陸するや、この急報を齎す爲蜿蜒(えんえん)四萬二千餘米突を走破してその任を果すや、悲壮な最期を遂げた勇者の面影を彷彿せしめるものがある。

それには先ず練習だ。彼此と理屈を云うよりも実行だ。体験は自ら尊い真理を我々に與えるから――先ず練習一本主義で行こう。二、三日間続いた鬱陶しい天気も今日は秋晴れの申し分ない日和、筋骨隆々たる大男が六、七人も打揃って鋪道を疾駆するのだからその強勢たるや大したものである。走る、また走る。翁婆は杖を止めて羨ましそうに眺めている。その昔自分達の溌溂だった時代が恋しくなってきたのだろう。道端で遊びに耽っていた子供等は良き相手を見付けたとばかり小さな拳を握り緊めて、断然我等を引離したかと思うと、力尽きて、はたとその場にたち止まってしまう。そして今に見ろとばかり睨みつける。そう云えば将来のマラソンの勇者はこの小童子かも知れぬ。

さあ帰ってきて見ると練習を始めてから間もないN君が見当たらない。後に君の話に依ると一人後に残されてノソノソやってくると側を通って行く電車の中の女性から微笑の視線を投げられて、これに元気を得たN君今迄のノロ坊が一転して超特急にたちかえり、無我夢中で尾行して行く途中道を間違えて閉口したと云う話。N君くれぐれも悔しがって曰く「彼女は今晩はよう寝れまい」と。

台所から焦げ飯の匂いが漂い奥座敷から花の一騎打ちで騒擾を演ずるかと思えば、何処からか宵待草のメロディが流れてくる。我等はこの中に何物かを掴んで已まないものがある。

鶏声台上にも秋は訪れた。学園興隆の秋である。我等若人はこの秋に直面して身を共に練ってお互い融和の中に何物かを捧げて行きたいものである。
(『思想と文学』第4巻2号1938年12月刊)


文中にあるように朴鉱采さんは昭和13年~15年の箱根駅伝に出場し、昭和15年には山登りの五区で区間一位(昭和10年の池中康雄さんに続く東洋大では二人目の区間賞)となっています。

朴鉱采さんの出場した箱根駅伝は下記の通り。
*円内数字は各々の区間順位
昭和13年 第19回 一区 二区 三区 四区 五区
(1938) 14:44:28 磯 清一 小椋 実 福島 徳令 金成 元夫 原 茂清
七位 1:27:47 1:18:26 1:18:48 1:22:05 1:43:28
(参加12校) 2:46:13 4:05:01 5:27:06 7:10:34
六区 七区 八区 九区 十区
大竹 太郎 松浦 重治 朴 鉱采 青樹 信正 原田 博
1:26:47 1:33:01 1:29:24 1:27:35 1:37:07
2:59:48 4:29:12 5:56:47 7:33:54


昭和14年 第20回 一区 二区 三区 四区 五区
(1939) 15:12:05 吉川 謙治 小椋 実 高岡 幸雄 原 茂清 朴 鉱采
八位 1:22:20 1:20:03 1:24:32 1:18:38 1:43:57
(参加10校) 2:42:23 4:06:55 5:25:33 7:09:30
六区 七区 八区 九区 十区
石本 三郎 那須 武則 小川 務 安城 敬二郎 松浦 重治
1:48:41 1:25:14 1:37:33 1:30:20 1:40:47
3:13:55 4:51:28 6:21:48 8:02:35


昭和15年 第21回 一区 二区 三区 四区 五区
(1940) 14:21:42 高岡 幸雄 高瀬 登 池中 康雄 小椋 実 朴 鉱采
八位 1:24:25 1:14:12 1:17:44 1:20:49 1:40:34
(参加10校) 2:38:37 3:56:21 5:17:10 6:57:44
六区 七区 八区 九区 十区
松尾 喜雄 赤木 義夫 小川 務 安城 敬二郎 武智 徳令
1:32:46 1:24:08 1:29:18 1:22:18 1:35:28
2:56:54 4:26:12 5:48:30 7:23:58



「秋窓雑感」が書かれたのは二回目の箱根を目指していた昭和13年の秋。文中に出て来るN君は七区を走った那須武則さんのことでしょうか……。


以前にも紹介しましたが昭和53年発行の『校友会報』111号に掲載されている陸上部OBの方による座談会「われらの時代の“箱根駅伝”を語る」では、箱根駅伝に初めて出場した時の一区の走者である兼頼米太郎さんが、戦前の練習の様子を次のように語っています

兼頼:陸上競技部ができましたのは昭和二年ですが、その頃は相当な人がいたようです。けれども、グランドがあるわけじゃない。たまには他の学校のグランドを借りにいったりしたわけです。そんな関係でおのずと長距離ということになりまして、じゃ、ひとつ箱根駅伝に参加しようじゃないかということになったわけです。駅伝に参加するには最低十人の選手が必要でして、中学時代に長距離をやっていた人を選ぼうということになって、昭和七年の四月から選手を養成するわけです。肴町の風呂屋(現白山・南天堂書店のとなり)から駒込、飛鳥山、西巣鴨を通って池袋までのコースを走るわけですが、風呂屋を出発点にするのは、お風呂屋へ行って裸になって、帰りにはお風呂で汗を流すというわけですよ。(笑)



同座談会によれば、川越にグラウンドができるまではトラックの練習は企業や他校のグラウンドを拝借していて、長距離の練習は昭和三十年代の半ばまで白山を出発点として、時には都電と競争しながら学校周辺を走っていたようです。


時は移り、戦前の箱根を走った方々は、いまや殆どが冥界からレースを見つめている事と思いますが、合宿所で集団生活を送り、日々の練習から食事のメニューまで科学的に管理されている今日の箱根ランナーの生活ぶりを見たとき、彼らはどのように思うのでありましょうか……。


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